別所

では では 

前回 俺らの先祖は当時流行りの儒教の影響で 食肉禁止になったにも関わらず

食肉を止めんかったか? までやったね。

実際には止めんかったと言うよりは 止められんかったの方が正しいねん。

それは俺らの先祖はドップリ 狩猟民族やしね~

田んぼや畑で穀物作るの 慣れてへんかったから。

狩猟民族? そう縄文系やし!

ここでもし 俺と同じ同和地区出身の人おったら言っとくは

俺らの おとんのおとんのおとんの、、、、大体60代ぐらい前は

関東から東北に住んどったやで! えっええええ~え! まじかい!

じゃあ~なんで 西日本に来たんやろか?

それがね~好き好んで来たんやあれへで 連れて来られたんよ。

学校で習う歴史の教科書に目糞鼻糞位 ほんまにちょっと出てくる

坂上田村麻呂の蝦夷討伐 詳しく書くの面倒やし。

これ→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9D%A6%E5%A4%B7%E5%BE%81%E8%A8%8E
この戦争で負けて 剣を作らされてたんよ

お前ら負けやし じゃんじゃん作らんかい みたいなもんやろな~

その製造の場所は古代の地名で別所やねん 今でも少し残ってるみたいやけどね
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この地図は滋賀の同和地区と古代別所やった場所と 照らし合した図やが

戦争が終結して置き去りにされた 俺らの先祖は収容所 別所から近い 

河原に移動して行ったんやろな~

だ か ら 今現在の同和地区は河原や 山奥なんかに多いんや思うで 

漁がしやすいから。

もう少し詳しく説明すると

同和地区はエミシの強制収容所が根源
蝦夷討伐でエミシを平定した大和朝廷は、エミシ達を全国に強制移住させた。
『延喜式』に俘因料という名目でエミシを強制移住させる予算を計上した地域、つまり、
エミシが強制移住させられた地域は、伊勢、遠江、駿河、甲斐、相模、武蔵、上総、
下総、常陸、近江、美濃、信濃、上野、下野、越前、加賀、越中、越後、佐渡、因幡、
伯耆、出雲、播磨、美作、備前、備中、讃岐、伊予、土佐、筑前、筑後、肥前、肥後、
豊後、日向で、奥羽を除いた関東から中部、近畿、中国、四国、九州、と全国にわたっている。
垣内、『別所』、散所、余部などと呼ばてた地域は、強制収容所のことである。
権力争いに負けた者、戦争に負けた者、植民してきた物も部落を形成するが、
最大の同和地区の根源は、先住民の征服による強制収容所である。東北に部落が少ないのは、
蝦夷討伐によって、東北が全体が部落のような存在になったからであり、
むしろ、東北は部落民の共給地であった。 蝦夷アテルイの戦いから引用

この『』内の『延喜式』と『別所』について簡単に説明すると
まず延喜式とはその当時の法律の事で、(法律とは少し違うみたいですが)
その項目が記載されたメモに記録として、残っていると言う事です。
メモと言っても漢文やし墨字で、私らには読めませんが。www
次に別所ですが、 これは宮崎アニメが好きな人やったら
見た事あると思うは (笑) もののけ姫に鉄砲作ってる人いたでしょうあれです。
実際には鉄砲ではなくて、刀です。自分の仲間をやっつける刀を、作らされていたんじゃないかな。 
それでは 次回は俺らにもおった スパーヒーローの話です。宜しくね。 
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Commented by orai at 2016-10-10 00:03 x
別所がエミシ強制移住地と唱えたのは菊池 山哉氏が先駆けで、引用されている「蝦夷・アテルイの戦い」では同氏の著書を引用していると推察します(同書には参考・引用文献の記述が見当たらないようです)。

菊池氏の著書『別所と特殊部落の研究(*書名ママ)』東京史談会, 1966.9 によると、「七.別所の特異性」(336-339頁)項にて定義ないし特徴を述べています。以下要点を述べます。
1) 全国200余ヶ所に同名の地があるので、何らかの共通性がある。奥羽6カ国、薩摩国、飛騨国には無い。
2) 山間僻地や丘陵に囲まれた地にある。
3) 近畿だけに限るが、昔差別的な村だった。
4) 「和妙抄」の古郷に必ず1ヵ所以上ある。
5) 国境近くの山間僻地または郡界にある。
6) 東-、西-、上-、下-、奥-、口-、里- などは別所そのものを区別したもので枝郷などではない。
7) 国府と直通の別所街道なるものが貫通されている。
8) 別所の草分けは2~3軒、多くて4~5軒。名主なく、明治期に一村全部初めて苗字をつけたものである。
9) 石棒が祀られている。中世貝塚のある所もある。
10) 急峻な山の中腹で昭和になっても山稼ぎが業体。
11) 1郡1ヵ村の割で、伝勅願寺または古社寺、平安古像がある。文書からも平安朝へ遡る。
12) 近畿以東の別所の鎮守が白山権現。
13) 北山餌取法師が大原別所。
14) 近世被差別部落による支配を受ていた所がある。
15) 藤原時代の薬師如来があるが、薬師堂の鍵取は本郷名主所管で別所の人は自由に開扉できなかった。
16) 奥州藤原基衛建立の毛越寺吉祥堂本尊は大原別所の補陀洛寺の本尊を模した。(「吾妻鏡」文治5年9月15日条)
17) 慈覚大師(円仁)草創で、室町期の仏像が数々ある。しかし、住民は近代まで木挽きであった。
18)「拾介抄」下巻諸寺の部に「光明山(寺) 山城国別所」。
19) むすび 全国に散在する別所は簡単な郷や分村ではない。俘囚村と別所は一つのものではないか。

また菊池氏は「院内・院地」も別所同様であるが、こちらは木戸を設け出入りを制限したらしい、と述べています。 私見ですが、いわゆるカイト地名(垣内、垣外、河内など)も院内と同様と思います。
Commented by orkai at 2016-10-27 00:56 x
拙コメントについて、いくつか補足します。

(*1) 1) について、菊池氏は誤っており、奥州6カ国内にも別所は数箇所(福島県いわき市、郡山市舞木および西郊外、山形県上山市、宮城県黒川郡大和町、秋田県大館市、青森県弘前市内)、
院内カイトも入れると、院内は秋田県内に数箇所(湯沢市院内銀山、由利郡、仙北郡田沢湖町-現大仙市)にあります。
河内をカイト地名の一つと仮定すると、岩手県衣川村-現奥州市にあり、近隣に鷹巣地名もあるのでおそらくそうでしょう。
また、薩摩国にも確かに別所は見当たりませんが、鹿児島市の西方に河内地名はあります。飛騨国については正しいかもしれません。

(*2) 6) について、仮宮(福岡県朝倉や香椎宮など)のあった辺りには近隣にこのような複数の別所や関連地名があります。また、俘囚郷も吉敷郡(現山口市)には、小字名に別所や戎などのつく地名が至るところにあったりします、ので、「和名抄」に出てくる俘囚郷・夷俘郷は、地名を見る限り、複数の強制移住地の集合地域だった可能性があると思われます。

(*3) 16) について、奥州藤原氏は在地支配の手段として天台系仏教や白山権現による教化支配を行いますが、8~9世紀に既に仏教は北上川中流域や
現在の秋田県中部までは移植されており、それを継承している可能性も高いのですが、別所における教化政策を踏襲している可能性も否定できません。
また、奥州藤原氏だけがエミシではなく、被支配者層には境界権力者とは様相の異なる地元エミシがいました。このことは南部藩書の祐清私記などに、奥州藤原氏滅亡後「閉伊の夷共、ないし賊」、「大槌之夷」や紫波の夷による蜂起など記されています。
by roman422 | 2015-03-23 18:14 | Comments(2)